ビート・オン・俗世

誰に役立つでも無く、損も無い、仏心を目指す落伍者のブログ。下町の酒場のアンモニア臭漂う小便器から、音楽を愛で、詩を吟じる。時々。日記や、雑感などを綴る。

(自称)パンクス・ロッカーどもへ ファッキューとラブを込めて

ブログの更新を途絶えさせていた数日の間にも、世界は変転としていて、その変転の最中の軋轢は、私に思慮、熟考する機会を与え得た。

大阪に襲来した台風21号は、北上して、日本海上で温帯低気圧へ変化をした。

その安堵の隙を突くように、北海道全域を揺らす、大きな地震が起こった。 最大震度は7。

それによって、北海道全域は停電、地域限定的には断水、土砂崩れ、液状化現象など、この地震によって悉く、インフラも、住宅も、自然も、元来の形状を崩され、壊された。

哀しいことに死者、行方不明者も公表された。

ニュースでは、被害の状況を報道する為に、ヘリから中継が繋がれていた。

私は、捜索活動の妨げになる、と過去の震災の度、言われているので自粛すべきであろうに、未だ、ヘリを飛ばすのだなーと、捜索の妨げにならない事を祈りながら、その報道に目を傾けた。

 

大阪の被害さえ未だ復興しておらず、ましてや北海道など、未だ未だ支援が必要である。

それに関わらず、大阪府知事は海外へ交遊へ赴き、政府対応は従来通り、イメージアップ戦略の為の利用でしかなく、形式的で行動が伴わない。 全く、反吐が出る。

さらに「復興」と言う観点から、日本の実状を鑑みるなれば、豪雨災害で被災した中国、四国地方の援助も、東日本大震災において、故郷を失ってしまった住人へのフォローや、流されてしまった町を再建する為の扶助だって必要なわけであり、一体、我が国は、どれほど「復興」出来ていない地域があるのであろう。

一部、SNSのとあるアカウントの方が仰っていた言葉を引用して、語らせてもらったのであるが、全く、この国の一部の官僚、地方議員による怠慢、それが原因で起こる、相次ぐ不祥事には、さすがに私は憤懣の情を禁じ得ないのである。

 

そしてまた、そのような数々の不埒な出来事を知り、ワイドショーやニュース(今報道される事は少なくなってしまったが)で見聞きし、知っているにも関わらず、飄々と、パンクロックだ、衝動だ、表現だとナメくさった事を言っている、阿呆どもにも、激しい憤りとともに、呆れさえ覚える。

表現と言うものの大前提は、主題も、媒体も、方法も何でも自由、原則的には何でもありであり、それに対して、とやかく言うつもりは微塵も無い。

ただ、私はパンクやアナーキー、ひいてはロックを名乗る人間が、全く社会に関して無関心などころか、ライブハウスやスタジオに篭って、挙句、内輪ノリの祭騒ぎ、と言うのが残念でならない。 私も一応は同じ畠の野菜なのであるが、よくも静観していられるものだ、と感心さえする。

彼らには、興奮やかっこいい、と言った快楽に基づく一部の感情と、生活の倦怠などの間延びした絶望の他は、全く感情の起伏が現れない。

それは何故か、と言えば一つに無関心、もう一つには無知だからである。

無知、とはまだしも、ロックやパンクにおいて、無関心と言うのはこれいかにである。

時代の流れとともに、それぞれの言葉が持つ意味合いも、少しづつ変化していっているのではあろう。

なので、現代的意味での用い方を、私が理解していないだけであるのかもしれない。

 

しかし、私は革ジャン、モヒカン、スキニーなどのパンクの慣例的なアイテムを身に纏って、オラオラして、うるさい音鳴らすぜ、と言うのが、パンクだとは、非常にナメているな、と思う。

「パンク」は、何かしらの誤解を招くかも知れぬが、思想であり、ジョンライドンや、ジョーストラマーを崇めて、ファッションアイテムで虚飾を施すのも、高速8ビートで、喚き散らして、直にアンプからギターへシールドを繋げて、うるさい音を鳴らす、それだけがパンクでは無いのだ。 そう、考える。 

そんなものは、信仰的な猿真似であり、お飯事である。 むしろ、そのような信仰などは自らが進んで唾棄すべき事であり、前時代的なのを嘲笑うべきですらあろう。

 

アナーキズム」とは、訳すると「反体制派」である。 つまり、その語訳から言えば、それは体制側に依存して、相関的な性質を持っている。

そして、かつてのパンクの発生には経済不況や、失業率の増加などの社会的背景と、ビートをより簡易的に、速く、と言うロックの概念の破壊と想像からなる音楽的背景を持っている。

それを、現代の日本にそのまま照合するとしよう。

形式ばかりの内閣と、富裕層ばかりが肥えるシステム、だが私達の生活は依然苦しく、経済政策の実感は無い。その上また、消費増税を企んでいる。

情報操作をされた国営放送。 被災地支援も、オリンピックにも民間の無償奉仕に任せて、雇用を創出しない。

まだまだ書き出せば、様々に国政へのファックはあるが、一先ず、その一部として、社会的背景は充分にクリアしている。

音楽としては、どうだろう。 これに関しては、深く突き詰めていないので分からないが、今や、EDM主流のヒットチャート界にあって、バンドサウンドも、その主流に迎合して、デジタルなサウンドへと変化していっている。

なので、従来的なバンドサウンドでは、もはや時代遅れではあるのだろう。

また、超個人主義的時代にあって、個人の哲学めいた信条や、普遍性、ドライで俯瞰的、と言うのが流行的な歌詞の書かれ方である、ようにも思う。

ここから、どうするべきか。  様々に述べたが、音楽的背景を考えるにあたっても「パンク」として立ち振る舞うべき姿勢、その余地は残っているのではなかろうか。 私は音楽的背景としても、パンクの発生はクリアしている、と考える。

 

つまり、充分に「パンク」の発生としては成立するはずなのである。 だが、どうしたものか、パンクを名乗る一部のバンドマンどもはライブハウスで喚いては、ビンビールを片手に、身体を揺らし、ご満悦なツラを晒している。

楽しいのは、とても良い。 それにも状況を変化させるパワーは、計り知れぬほどに秘められている。

ただ、パンクス諸君は、そろそろ、その安泰な場所を壊されぬ為に「パンク」としての役割を、そしてこの国を考えるべき、フェーズに差し掛かっているのを自覚すべきではなかろうか。

「パンク」としての自負があるのであれば。

 

「ロック」も自由だ。 何にも縛られない。

捉えられない。そして、いつでも好都合的だ。

それが、ロックのステキでハッピーな側面である。

しかし、今日の社会情勢を鑑みると、そのロックの真ん中に、滔々と流れる「自由」までもが、邪魔をされて、「自由」に弾くことも、歌うことも出来なくなってしまう事態が訪れてしまうかも知れない。 その可能性は充分にある。

議会では与党の数の力により、どんなに劣悪な法案であれども可決されてしまう。 せっかく開かれた国会が、数の力によって、無力化されてしまう。逆に、野党の不信任案などは、数の力で否決される。  これは、我が国の民主主義を揺るがす問題だ。

もはや、一党独裁の政治であり、他は数の力によって、黙殺されてしまう。

これはつまり、ナチスの発生のような状態にあり、非常に国家として危険なのだ。

歴史を勉強しているならば、やがて独裁国家がどのように変貌を遂げるのかは、おおよそイメージが付くであろう。

創作も、言論も、メディアも、あらゆるものが規制対象となり「自由」に歌は唄えなくなる。

それだけならば、まだしも、酷ければ、創作に携わる界隈の人間に対しての弾圧さえも行われる。

そうなると、誰もが恐怖により、今より更に口を閉ざし、やがて「ロック」は隠れてやらなければならなくなる。

自由であるはずで、楽しいはずの「ロック」が、迫害を受けてしまう。

誰が、そのような未来を望むであろう。

「ロック」も、その自由を駆使して、歌うべき事を歌う時代が到来しているのではないだろうか。

もちろん、誰もが右向け右で、セットリストが全て社会的なんてのは、つまらない人からしたら、とことんつまらない。 なので、その必要性も無い。

しかし、意識を個人主義から、私達をナメくさっている一部政治家達や富裕層どもを叩き落とす為に、そして私達、民間人や労働者同士が、狭い都会で睨み合わずに、生きられる社会をどうしたら作れるのか、と言う為に向けていければ良い、と考えている。

 

数曲、歌詞を書いているので公開する。

 

「get up stand up、怒るべくして怒る」(仮)

 

国会は紛糾、凄まじき横暴、無力化される決議の暴走

する内閣の首謀者の嘲笑、許すまじ、民衆を愚弄する態度

強行採決で通る法案、足音は徐々にナチスのような

一党独裁へ近付いている、危険信号が点滅する

 

対立する派閥への弾圧、秘密裏の会談で振り翳す権力

多数決の論理で捻じ曲がる民主主義、少数派は黙殺、外道に堕つ倫理

日給数千円の労働者の 所得から、搾取する 税金は戻らずにそれきり

富裕層の懐の肥やしにばかり、費やされて、格差は広がるばかり

 

経済は低迷、依然私達の、生活はスーパーで産地不明の

肉や野菜の特売を漁る毎日、経済政策の実感などありません

フクイチのせいで 汚染された土壌、その野菜のセシウム濃度が心配、でも

不安な民衆の声をよそにまた、原発を輸出? 再開発?

 

隠蔽も、改竄も、嘘も、記憶に ございませんも全て腐敗の兆候

数々の暴挙にこちとら とうに頭に来てんだ、馬鹿にすんな

 

get up stand up 立ち上がる、奮わせ

 

自由の統制に抗え、そして権利を謳い、旗を掲げろ

脳は考える為にある、何を成すべきか、従順に敷かれたままでいるか?

メディアへの信用はもはや地に落ちた、話題を消費するばかりの番組が

何を信用すべきか惑わす、それが招く、無思考、無関心

 

それはヤツらにとっては好都合、気付かれぬように忍び近付き、いつか

あんたの寝首をかくだろう、ディストピア、俺らの手足は繋がれた

映画のような近未来だって、衒学で気取ってられもしない

行く末は右向け右で行進する、全体主義の駒に成り下がる

 

被災地支援の数百倍の巨額を投資して軍備を拡張

被災地への救助は後回しに、根回し、酒盛りで馬鹿騒ぎ、そして

被災地視察はイメージ作り、パフォーマンス、カメラへの意識だけは常に抜かりなし

被災地の方への思慮深い言葉なんて、思い付かないんだろうな、思ってもいないんだから

 

人間の尊厳も権利もいとも 簡単に蹂躙するような暴挙を

許すまじ、憤怒はこの血を沸かし、支配者を引きずり降ろせと告げる

 

get up stand up 立ち上がれ

 

牙を抜かれ躾られた獅子か、違うな、お前は誰だ?胸に問いな

例えば あんたの大事な人が 嬲られ、命を踏み躙られるなら

例えば 公的機関はあんたを、一切守ってくれないとしたら

それが来るべき未来だとしたら あんたはどうする?

 

主張は拮抗、深まる対立、罵詈雑言により生まれる憎悪

右から左、左から右へ、disの矢放って、報復、応酬

対立構造によるデモの抗争、依然平和には程遠そうなどと、日和って見ている坊やに警告 「もはや、この国は安泰でない」

 

この国は終わった、それは始まりだ、取り戻す民による民の国

御国の為の命では無い、だから渡すな 闘い貫くべきだ

基本的人権の原則も 知らない阿呆が携われるほど

失墜した此処を再建す 怒るべくして怒る、憂国の士達よ

 

get up stand up 立ち上がる、奮わせ

 

スタンダップ、フォーユア、ライツ!

 

…続いて、以下。

 

DTD(do the destroy)」

 

終わったも始まったもない ただ日々があるだけなんて

台詞のような言葉の質量は、おおよそゼロ

切って貼って、テンプレート 戯れに唄う「愛してる」も「ファッキュー」も

もはや同じ部屋に押し込められて 窒息しそうだ、ありがとファッキュー

クールで鋭利がシティ的とか 夢だ、衝動だ、で情熱的とか

口説きの話術に長けたボーカルが、今夜もライブでカッコつけている

軽薄か、メタフィジックか、夢か、道か、クソか、ゲロかなんだ

ムシャクシャするな 戯言で鼓膜に穴が空きそうだ、飯事じゃねんだ、ファッキュー

 

すっからかんな音楽達を叩き壊す

蔓延る生命の枯れた歌を裂いて壊す

虚飾に溢れた現代を 蹴り破り 凡ゆるモノを唾棄する

これを貴様へ 腑抜けて、牙すら生えないパンクスへ

 

闘うべきものは 味方同士じゃないって事くらい 分かっている だけど

何だかどうも むしゃくしゃするな 勘違いしてる奴らを見ると

革ジャン、スキニー、大量生産 パンク舐めんな、便乗すんな

既成概念の破壊と創造、自称パンクスはだいたいゴミ、ファッキュー

 

空っぽの容器を 空っぽなトークで埋める退屈な連中の

思想は、自由を盾にした無思考、吠えるだけの馬鹿

教育の洗脳も 社会の風潮にも 何の疑問も無いヤツに

ティーンエイジャーが騙される、そいつを解体するぜファッキュー

 

どいつもこいつも 同じような音楽ばかり 聞き飽きた

もっと とっておきをくれよ

 

すっからかんな音楽達を叩き壊す

蔓延る生命の枯れた歌を裂いて壊す

虚飾に溢れた現代を 蹴り破り 凡ゆるモノを唾棄する

これを貴様へ 腑抜けて、牙すら生えないパンクスへ

 

 

以下、余談。

昨日に面白い漫画を、友達の部屋で読んだ。

「私の宇宙」と言うタイトルで、作者は野田彩子と言う、これを書いた当時、新人漫画家であった。

この漫画が、どのように面白いのか、と言えば、この漫画の中の一部のキャラクターが「この世界は漫画である」と、確信して認識しているのである。

メタフィジカルであり、時にユーモアを織り交ぜてこそいるが、ふとしたコマに、ずしりと重たく胸を刺し貫くような台詞も散りばめられていて、その都度、ドキリとする。

世界が虚構だ、誰かによって描き上げられた紛い物で、私の意志や感情も、その後の行動も、息をつくタイミングさえも、誰かによる「作り物」だ。 もしかすると、私達が生きて、知覚出来るこの三次元こそが、そうかも知れない。

初めこそ、その虚構の闇で不安に揺らぐものの、読み進めていくと、きちんと救済が用意されていた。 なので、安心した。

 

私ならば、この世界が虚構だ、と知ったらどうするか、を考えた。

考えたところで、高次元に生きる作者を知る事は出来るけれど、見ることも、聴くことも、触ることも出来ない。 

なので、きっと私はいつものように、私の意志で生きて、私として振る舞うだろう。

キャラクターはいずれ、作者から自立する。 その自立の余地で、私は描かれるべき運命に抗う。 良い結末を描かれる為に、抗うのだ。

この世が虚構である、なんてのは甘ったるい感傷だ。

虚構なんてのは、理知によって持て余す玩具だ。 

私は、そう考えた。